とても細かい子宮頸がんの日記。

子宮頸がんと診断されてからのあれこれをひたすらに細かく。

手術

2015年4月20日、手術当日。
結局浅い眠りから何度も覚めつつ明け方、下剤の効果で二度ほどトイレへ。
朝食後には、念には念を入れての浣腸!も、ありました。
浣腸…ああ…。
処置室で看護師さんに処置を受け、「便の状態を見るので終わったら呼んでください」とのお言葉に更なる衝撃を受けたり。
トイレのあとを見られるというのは、それはもう、幼少時以来の体験です。トイレからナースコールをするのに、往生際悪くだいぶためらいました。まあ、看護師さんはお仕事で慣れておいでかとは思うのですが、それでも、かようなありさまをお目にかけて申し訳無いという思いでいっぱいに…。

病院によるのかもしれませんがここでは短時間の手術を午前中に、長時間かかるものを次の時間帯におこなうことが多いそうです。
私はあとのほうで、午前の手術が終わってお昼頃からになるだろうと言われました。

10時前になり手術衣への着替え。
また、術後に着るものを指定されたビニール袋へ詰めておきます。
前あきのパジャマと下着、病院支給の腹帯と弾性タイツ、生理用ナプキン。
麻酔から覚めるまえにこれらへ着替えさせられるのだそうです。

担当医が病室へ現れ、点滴開始。
先生、なんと左腕側面への穿刺を失敗。
「ごめんごめん。こっちはほとぼりが冷めてから麻酔のほうで使おうね」と右腕へ。ウウウ。太い針は痛いです。

11時頃父と弟がやってきた直後に午前の手術が早く済んだと知らせがあり、すぐに手術室へ向かうことになりました。

徒歩で。

ストレッチャーで運ばれるのではないんですね!
ここ数年、「歩ける患者さんには歩いていただく」というのが主流だそうです。ストレッチャーから手術台への移動など人手がかかるうえ、その移動で気分が悪くなってしまう患者さんもいるのだとか。なるほど。

地下の「手術室」と書かれた扉の先へ進んでみるとかなりの広さで、15室もあるそうです。
自動ドアで仕切られた手前に事務室、ソファが並べられた家族待合スペースとジュースの自販機。
ここで病棟看護師さんからオペ室の看護師さんへ引き渡されます。家族へはPHSが渡され、手術終了時に連絡が入るので敷地内は自由に移動して良いとのこと。合理的です。

いよいよ奥へ向かう前に家族へ「じゃ、行ってきます」と手を振り、自分で点滴のガラガラを引きずって歩き出すのはなんだか緊張感がなくておかしかったです。

私の入った手術室は想像よりこじんまりした印象でした。
中央の手術台は人一人がぴったり横になるだけの必要充分フィットサイズ。
布団乾燥機のようなものが上に乗せられ台を温めていました。

まずは硬膜外麻酔。
横向きになり、身体を丸めて胎児のポーズをとり背骨を浮き出させる。
局所麻酔をしてから、脊椎のあいだへ細い細い針を繰り込んでいきます。

この麻酔科の先生がアイドル並みの困り眉でとても可愛らしかったのですが…ということは、そう…やはり新人のようで。
横でベテランと思しき白衣の女性がつきっきりで指示と助言を出していました。

「ここでしょうか…」
「いちばんわかりやすいところへ…」
「ここ…?」
「同じ所で何度も当たってしまって…」

なんとも不安なやりとりと、局所麻酔で抑えられているものの背骨にゴリゴリとした痛みが続きました。
手術室に流れるYUIの歌が3曲終わって誰かがプレイヤーをいじりはじめたから、20分位はこれで経過したはず。きつかった。
どうにか背骨の中へ針が入り、さらに細いチューブが通されるとそこから麻酔注入開始。やっと仰向けになり、こんどは酸素吸入開始。

「では眠っている間に終わってしまいますからね」
目を閉じてほんの数秒で、暗転。
これはよく言われますけれども、もう本当にあっという間でした。
手術には8時間ほどかかりました。

つぎに「○○さーん」という呼びかけにうっすら目を開けると看護師さん、担当医の先生。
苦しいだろうと覚悟していた、眠ったあとに口の中へ通されていたはずの管は、既に自発呼吸の確認後抜去されていました。
喉はガラガラで何度も唾を飲み込む。
体温が下がっていたためとても寒い。
寒くて震えが止められない。
「終わりましたからねー。戻りますよー」
とストレッチャーで運ばれている感覚。
「ご家族もいらっしゃいますよー」
不安げにこちらを覗きこむ父と弟。
私は「長い時間すみませんねえ」などと口走っていたようです。
とにかく、とても寒い。

この日は個室へ。
寒くて寒くて激しい震えが止まらない。
この夜は高熱と痛みでドロドロでした。